宮川神社

古社名 神野神社(かむのじんじゃ)

鎮座地

亀岡市宮前町宮川神尾山二番地

祭 神

本宮 伊賀古夜姫命(いがこやひめのみこと)  誉田別命

末社 玉依姫命(たまよりひめのみこと)    貴船大神

 

 宮川神社の創建はきわめて古く、大宝年間と伝えられ、桑田郡(亀岡市と北桑田)に十九座ある延喜式内社の一つです。

 「山城国風土記」によると、今の亀岡あたりに拠点を持っていた出雲族と京都盆地に入ってきた天孫族の一つである賀茂族が勢力争いで戦闘になりましたが、やがて和議を結び、その印として出雲族の長の娘「伊可古夜日売(いかこやひめ)」が賀茂族の長「賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)」の妻となり「玉依比古(たまよりひこ)」と「玉依日売(たまよりひめ)」を産みました。この「玉依日売(たまよりひめ)」が「火雷神(ほのいかづちのかみ)」と交わって産んだ子が「賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)」で、今の下賀茂・上賀茂両社の創建縁起になっています。宮川神社は「伊賀古夜姫命(いがこやひめのみこと)」を、下賀茂神社は「賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)」と「玉依姫命(たまよりひめのみこと)」を、また上賀茂神社は「賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)」を祭神として祀っています。この神縁によって、葵祭りには毎年宮川神社の氏子二十三名が参列奉仕しています。

 

 宮川神社と賀茂神社の祭神の関係をわかりやすく図示すると以下のようになります。

 創建時は現在地ではなく、神野山(今は神尾山)の山頂に近い八幡平にありました。当初祭神は一座でしたが、豊前国の宇佐八幡宮(祭神は誉田別命)を勧進して御祀りし、二座となりました。八幡平という地名は八幡様を祀った場所から来ているのではと思われます。また、神社の呼び名は宮川神社ではなく神野(かむの)神社と呼んでいました。中世までは同じ神野山にあった金輪寺の守り神としても繁栄していましたが、天正五年(1577年)明智光秀と波多野秀治の神尾(野)山城の合戦による兵火によって焼失してしまいました。それ以降天候不順で不作になり、飢饉が続きました。村人は神野神社のたたりと考え、改めて正保四年(1649年)に、参詣の便も考えて今の地に移し祭祀しました。その後、享保三年(1717年)に流造檜皮葺の社殿を造り、村名を冠して宮川神社として今日に至っています。